石下城(益子町芦沼/市貝町石下字前)

「いしげ」と読むのかと思いきや、「いしおろし」と読むのだそうだ。
読めるわけねえだろ。
別名、長寿城とも言う。
市貝町と益子町の境にある標高170mの山にある。南側の国道123号線が通る平地からの比高は70m。結構、形の良い山である。
国道123号線から石下地区に北上すると「源治神社」がある。
この神社の西側に見える山が城址であり、神社前から道が付いているのでそれを登ればよい。
この道、軽トラック程度は入れる林道のようでであるが、もう山に入る人がいないのか、路面に竹が生え始めて荒れている。
この道を山方向に登るのであるが、道が複雑に分岐している。
どの道を行ってよいか悩むが、結局、どの道を行っても何とか山頂の城址に着く。
城はほぼ本郭のみの単郭の城と考えてよいが、西側から北側にかけてL字形に二重に横堀が存在するのが特徴である。
2本とも総延長は120mはある。
本郭はL型をしており、北側が東西40m、南側は東側に3段になっており東西60mほど、南北100mほどであり、北端と南端がやや高い。郭内はそれほど平坦ではない。
西側5m下に1本目の横堀があり、さらに5〜15m下にもう1本の横堀がある。
下の横堀は北側に行くと高くなる。
北側では1本目の横堀とは高さで5mほどしか差がなくなる。
横堀は本郭の南側で犬走り状の曲輪になるが、急坂なので立ち消える。
この方面は攻撃される恐れはないだろう。
本郭の東側も急傾斜であり、帯曲輪がカーブを描いてとりまいているだけである。
本郭北側は堀が完全に二重構造になり、虎口が開き、北東側の尾根に続いている。
この尾根が大手道であろう。
本郭内部は藪はそれほどではない。 1つ目の横堀、結構埋没している。 2つ目の横堀。
東に尾根伝いに100mほど行くと右の写真に示す(高度差で20mほど)40m四方ほどの平場がある。
ここも曲輪と思われる。その北側と東側に腰曲輪がある。

「芳賀の文化財」によると康平年間(1058〜64)、石下七郎右衛門によって築かれ、南北朝時代には北朝側に属したため、飛山城と共に南朝軍に攻められ、興国2年(1341)に廃城になったという。

その後、益子系図に市塙十郎政利の4男貞良が石下越後守を称し、石毛峠三百丁を領したという記述があるので、戦国期には市塙氏が使用していた可能性があるともされている。
しかし、果たしてそうか?

この城、西側、南側の防衛が強化され、北東側は弱い構造である。
南、西側の敵に備える構造である。
とすれば、この城は東の茂木氏が西の益子氏に備えたものではないか。
つまり、西の益子氏系の小宅城に備えた茂木氏の城ではないのか?
この関係、少し南で、至近距離で対峙する高岡城と木幡城の関係とそっくりである。

田野城と田野陣屋(益子町長堤字宿)
益子町中心部から県道41号線を岩瀬方面に2.5km南下すると長堤地区にある県道257号線と交差する長堤交差点に至る。
この交差点の北西一帯が城址である。
この付近は東側から西の小貝川方面に緩く傾斜する扇状地である。
その微高地の末端部分に城があり、典型的な平城である。

北と西側が水田地帯であり普門寺の北側付近にも堀が存在していたというので、この宿地区全体約500m四方という広大な城域を持っていたようである。
主郭は普門寺から200m南の林の中である。
この林、目立つのであるが、行く道が見つからない。
何の案内もない。
西側の藪を強行突破すると、そこにはほぼ完存の方形館があった。
南西の一部の土塁は欠損しているが、郭内が60mほどの広さで、高さが3mほどの土塁が周囲に巡らされている。

南東側が若干膨らんでいる感じであり、四隅の土塁が少し高く櫓台があった感じである。
虎口が南に開き、土橋がある。
その部分の土塁もしっかりしている。門があったのであろう。
土塁の外側には深さ4m、幅8mほどの堀が巡っている。
埋没しているが、水堀であったものと思われる。
その外側に幅10mの曲輪が方形に回っており、高さ1mほどの土塁がある。
その北側には深さ4m、幅8mほどの堀があり、底には水があった。
水路と思われる溝が北に延びている。
(途中でなくなっている。)

この外側の堀も東西で曖昧になって消えている。
西側にも堀があったようであるが、埋められている。
若干のくぼみが残る。
他の部分は宅地となってほとんど失われているようである。
ただし、現在も中城、東郭、西郭、田郭などの地名が残っている。

本郭北側の堀。 こちらは本郭西側の堀。 本郭北側の土塁上。右が郭内。
郭内部は藪が刈られて綺麗になっている。 外郭北側の堀は水が残っている。 本郭北側の曲輪の外周には低い土塁がある。

羽石家文書によると、築城は永禄3年に羽石内蔵之介時政によるという。
この羽石氏は結城氏の家臣であったようである。
羽石盛長の代に結城晴朝に対して反乱を起こし、水谷蟠龍の攻撃を受け落城したという。
「水谷蟠龍記」では、天正13年のこととしている。
これを「田野合戦」という。
この時に廃城になったというが、江戸時代、この地は旗本の松平氏4500石の領地となり、田野城の本郭の地を利用して陣屋が延宝4年(1676)に置かれ、明治維新まで使われたという。
明治維新で陣屋は廃され、陣屋の建物は民間に払い下げられ、八幡神社の社務所がその一部という。

(余湖君のホームページ、芳賀の文化財参考。航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)

七井城(益子町七井

益子市街の北にある「七井」集落全体が七井城の城域であったという。
この地は東から張り出す台地であり、東側以外は湿地であった。
全体像は宅地化により分からなくなっているが、そこら中に堀と土塁の残痕が残る。

七井支所付近が高台となっており、この裏、北側付近が本郭であったという。
宅地の中にちゃんと土塁と堀が残っていた。
七井小学校付近にも虎口の跡などが残っているという。


これ土塁なんだけど、藪で分からん。 これも堀だけど・・。 ここは土塁の隅の櫓台跡とか。

益子勝宗が天正4年(1576)七井城を築いて五男勝忠を城主にしたという。
天正12年、勝忠は宇都宮国綱に叛き尾羽寺で毒殺され、その子の忠兼は天正14年、茂木山城守と新福寺に戦って敗れ討死。
そして天正17年(1589)、益子家宗が宇都宮軍の総攻撃を受け、家宗は討死、益子氏は滅亡、その時、この七井城も廃城となったという。
(芳賀の文化財参考。航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)

矢嶋城(益子町七井字山王後)

七井城との間に低地を挟んで北側の岡先端部、日枝神社の北側が城址であったという。

県道163号線を、真岡鉄道の線路に沿って市貝方面に北上したところ、県道脇にこの日枝神社がある。
ちなみにこの日枝神社は城主、七井氏の氏神という。

神社の北側一帯が城址であるが、耕地整理が行われ、ただの畑である。遺構は分からない。

岡の東側が何となく、切岸っぽい感じがするのみである。
この城は、七井城が存在する以前から存在していたという。
七井城築城後はその支城であり、七井氏の一族が城主であったという。
七井の名の由来となった7つの井戸のうちのいくつかが残されていると言われるがこれは分からなかった。

(芳賀の文化財参考。航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)
城主七井氏の氏神日枝神社。
この神社の北東側が城址であったという。
台地東側、何となく切岸のように見えるが・・ 左の写真の左の先にあったこれはなんだろう?

折実館(益子町大沢字新福寺)

「芳賀広域農道」沿いにある「ゴルフ&スポーツ 益子クラブ」があるが、その西側が館跡であるというが、山は削られ湮滅してしまったようである。
良く載っている写真を掲載。
この林の中には入っていない。
益子氏と佐竹家臣茂木氏は境を接していたため、国境紛争が絶えず、天正14年(1586)9月、茂木城の茂木山城守治良の軍勢が侵攻。
この付近で益子氏と益子一族、七井氏の連合軍と戦い、益子氏が敗北。
七井城主 七井忠兼が討ち死にしたという。